患者様の声

在宅治療介護をご利用いただいた家族様より

2013/05/28

在宅治療介護をご利用いただいた家族様より

 母の病気が発覚したのは亡くなる1年前でした。
 聞いた事のない癌でしたが、手術や抗がん剤・放射線治療をすれば治るものだと信じていましたが、治療もできない状態になってしまいました。

 主治医からこれからの事を、したい事をし、行きたいところに行って、思い残すことのないようにしたらどうかと言われ、母は「もう私は死ぬんやろか」と、芯の強い、我慢 強い母が、初めて弱く、とても小さく見えました。

 もう治療もできないので、ホスピスに入るか在宅治療にするかを選ばないといけない時、 まず母の思いが一番大事でした。母に聞くと「他の病院は嫌や。家がええ。」と言いました。
あまり深く考えず、では在宅治療にしようと思い、思い浮かんだのは土井先生の事でした。
 病院の看護師さんも「土井先生は素晴らしい方なので、お願いできるのであれば一番いいです。」とおっしゃっていました。

 土井先生と面談させて頂き、母が後2 ヶ月の命だと、24 時間介護が必要だと、私が考えている以上に厳しいものでした。帰り道、仕事の事いろいろな事が頭を巡り、デパートの中を廻っていたら、母への想いがあふれてき、やっぱり母と一緒にいたい、母が一生懸命父の介護をしたように私もしたい、介護休暇がだめだったら仕事を辞めようと思い、在宅治療に決めました。

 それからは、土井先生が訪問看護の方や薬剤師の方などを直ぐに決めて下さり、面談の場 を設けて下さったので安心しました。

 退院後は、母の病状がどうなるのか夜も眠れなく不安ばかりでしたが、土井先生をはじめ、土井医院のスタッフさん、訪問看護師さん、薬剤師さん、全ての方に良くして頂き、大変 有難かったです。

 退院してからの2 ヶ月間は、「何処にも行きとない、家がいいと」外出や散歩に誘っても家を出る事がありませんでした。「家族と一緒にいたい。」その一言でした。

 母が一番辛く、しんどい思いをしているのに、「朝は牛乳と果物を食べるんやで。」「ちゃん と寝なあかんで。」と私の事や兄や義姉・甥の事を心配していました。今更ながら母の愛情の深さを感じました。 又、訪問看護師さんから「今、何を考えているのですか?」と聞かれ、「無になっています。」 と答えた時は大変辛く、何も出来ない自分が悔しかったです。

 きっとこれらの事は、一緒にいなければ感じなかった事だと思います。ホスピスに入って いたら、私は毎日仕事をしていたと思うので、一緒にいる時間に限りがあったからです。

 この2 ヶ月間、母はどう思ってくれていたのかは分かりませんが、私なりに母に尽くすこ とができました。兄も訪問看護師さんに「在宅にして本当に良かったです。」と言っていたそうです。

 意識がなくなった最後の一週間は、不安がないと言えば嘘になりますが、家族皆で母の傍 に寄り添い看取る事ができたのも、時間に関係なく先生やスタッフの方・訪問看護師さん・ 薬剤師さんが見守って下さっていたからだと思います。

 薬剤師さんが言って下さった言葉が凄く心に残っています。「とても生命力のある方でした。」と。きっと少しでも家族と一緒に生きたいという思いが溢れていたのだと思います。

 在宅介護は大変だとよく聞きますが、私はそうだとは思いませんでした。かけがえのない家族と最後まで一緒にいられるのは最高の幸せだと思うからです。

 ただ、それには信頼できる先生とスタッフさん・訪問看護師さん・薬剤師さん達が一緒に いて下さらないと成り立たない事だと思います。

 私は大変恵まれていたと思います。母と最後まで一緒にいれて幸せだったからです。
 母と筆談したメモは今も大切に残しています。私の宝物です。

在宅療養をご利用いただいた家族様より

2013/05/28

在宅療養をご利用いただいた家族様より

 父の認知症の状態が坂道を転がり落ちるように悪化していったのは2010年8月頃からでした。
 介護に関してなんの知識もなかった私達は、とりあえず地域支援センターに相談し、介護保険の申請をしました。
 しかし要介護3の認定がおりるまで2ヶ月もかかり、その間にもどんどん状態は進み、昼間は母が、夜は私と兄が交代で泊り込み介護していたのですが、こんなことではいつか誰かが倒れてしまう、とどうしたらよいものか路頭に迷っておりました。
そんな時、親戚に土井医院を紹介してもらって相談に行くと、早速3日後には土井先生が往診に来てくださり、ケアマネージャーさんに 介護の相談をすると、ショートステイができるように迅速に対応してくださり、ようやく信頼できる先生とケアマネージャーさんに出会えたことが、心強く私達家族の支えとなりました。
 2011年年明け早々、事態が急変し少し目を離した隙に父の呼吸が止まり、心臓の音もしていません。緊急時は救急車を呼ばず、まず土井先生に連絡するように、と言われていたのに気が動転してしまった私は頭の中が真っ白になり思わず119を押してしまいました。
 先生から言われていたことを理解していたつもりでいたのに、緊急時というのがいきなり心肺停止とは結びつかず、人は病院で亡くなるもの、という先入観から私はそんな行動にでてしまったのだと思います。 「大変なことをしてしまった」と気づいたのは病院で医師から「脳死状態です」という説明を受けたときでした。延命治療はしないでほしい、という希望は叶えられず、集中治療室でいったん人工呼吸器をつけてしまうともうはずせない。気管切開をするか、中心静脈栄養をするか、いろんな選択を迫られました。
 1ヶ月後、病院からは「退院できますよ、良かったですね」と明るく言われても、なにが良かったのか、自宅でどうしたらいいのか、再び路頭に迷うこととなりました。そんな時も助けてくださったのは土井医院の皆様で、「かいでに来てください。私達が最期まで看ます」とおっしゃっていただきました。
 救急車を呼んでしまった自分を責めて、父に会いに行く度に「お父ちゃんごめんごめんごめん、、、」と泣きながら謝り、またどんな形であれ命さえ延ばせれば良しとする病院のあり方に憤り、心の中はいつもざわついていました。
 そんな先の見えないトンネルの中にいるような気持ちを抱えながらも、いつも笑顔で親身になってお世話してくださったスタッフのみなさまのおかげで、半年もたつと少しづつ落ち着いてきて涙の出る回数もどんどん減っていきました。
 それから1年2ヵ月後、父は安らかに旅立ちました。 この1年は父とお別れするためのこころの準備期間だったんだ、と自分には言い聞かせていますが、今でも本当にこれで良かったのかどうかはわかりません。やはり脳死状態で過ごした1年は父にとっても家族にとっても辛い1年で、人間はこんなになっても生きなければいけないのか、尊厳死は認められないのか、今でも救急車を呼ばなければ父は苦しむことなく逝けたのに、、、と思います。
 いろんな選択を迫られ、迷い、戸惑い、家族で意見が分かれ、そして決めた後も本当にこれでよかったのか、もっといい方法があったのでは、と思い悩む日々です。
 今思うのは、日本がいかに長寿国であっても尊厳なく延命させられている高齢者が何万人といることは決して幸せではない、これからは人が穏やかな最期を迎えられるような医療がすすんでいくことを願います。

在宅医療のご利用者様より

2012/12/27

お母様、お父様を在宅で土井先生が看取られた家族様より

 私と私の家族は母を家で看取りました。癌と言う病いに倒れた母を家族で支えました。

父、弟、嫁、私の4人です。 母を自宅で看取る事ができたのは「土井医院」のおかげです。

一番、辛かった事は、余命の宣告です。病院の先生に「半年です。中には3年ぐらい生きる人もおられる。」と言われた事です。

間もなく入院し抗がん剤治療が始まりました。本人は抗がん剤治療が辛く、周りの患者さんやナースに気を遣い家に帰りたいと訴え出しました。

母は、人一倍 気を遣う人でした。 いくら、しんどくてもカーテンひとつ向こうにひとさまがいる場所でポータブルトイレで用をたす事はできませんでした。

 

やがて、抗がん剤治療も限界をむかえました。

本人にとっても家族にとっても病院のベッドでは安心とやすらぎの場ではなくなりました。

治療がないのでは病院に居ても仕方がないと思いました。

しかし、癌の進行による痛みと不安は増えていき日々の悩みとなり先の見えない毎日でした。

 

その時です。土井先生とスタッフが在宅に向けて病院の主治医やナースと退院調整に動いて下さいました。

 

階段だった玄関もスロープに変えました。住宅改修をしました。

母は家族のために買い物に行きました。父が車イスを押しフレスコまで買い物へ行きました。

堺の親戚の家にも遊びに行きました。親戚の叔母たちは「どこが悪いんや、顔色もいいし」

と言っていました。それを聞いた母は大変、喜んでいました。

病院に居ては考えられない事です。

 

 

そうは言っても癌の進行は止まらず、一人でお風呂に入れなくなり小規模多機能かいでのグールプホームかいでのサービスを利用し訪問看護師さんにも家に来て頂きました。

やがて来るその時が「年単位」ではなく「月単位」でもなく「週単位」になった時

土井先生がこれから「どんな状態になり・・・・・・。」と言う話をして下さいました。

 

「何かあれば夜中でも、いつでも電話して下さい。」と言う言葉があり、母の事を家族と一緒のように見て下さっているのだと思いました。

 

それは癌と言う病気の事だけを見ている医者ではなく同じ人として母の人生、母をとりまく家族を支えて下さったのです。

病院のように「点滴につながれたり」「心電図音が取っていたり」「酸素ファードを図るために指に機械がついていたり」していません。

常に家族の声が聞こえ24時間家族の見守りがありました。

 

こんなに長く母と一緒に過ごし、話をし、今まで抱きしめられてきた私が、今度は私が母を抱きしめ「大丈夫やで」と何度も何度も確認しあいました。

小さな子供の時、以来の事です。

夜になれば弟が泊まりに来て[川の字]になって寝ていました。

 そして、皆が見守る中きれいな顔で母は旅立ちました。

母が亡くなった時、弟が「皆で乾杯しよう。」と声を出しました。

本当に綺麗でやすらかな母を前にビールで乾杯しました。

 

 

平成22年2月に母を亡くし、平成24年1月1日に父が土井先生に電話をし

ました。

 

父は今、肝臓がんです。

 

この5月11日より私は介護休暇を頂いています。今、父はお腹の子(8か月で予定日は8月3です。)を母親の置き土産だと話、顔を見るまで頑張る。と言い、土井先生の訪問診療を受けています。

「ぽーれぽーれ」掲載の反響のお声を頂戴いたしました。

認知症家族の会「ぽーれぽーれ」に院長原稿が掲載され反響のお声を頂戴しましたので、その一部をご紹介させて頂きます。

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認知症家族の会事務局様より

連載では大変にお世話なりました。
下記のような内容のお便りが事務局に届きましたので
うれしく先生にご連絡いたします。

 


 

こころは伝わると思いました。
これでよかったのかと逡巡している家族の気持ちを楽にしていただき
前むきに生きることができたように感じます。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

 



 

千葉県 U様 61歳 (女性)

4,5月号の土井正樹先生の「認知症の人の終末期を考える」や「胃ろうへの家族の思い」を大変関心深く読みました。

近年他界した3人の親達の介護施設での終末期を回想し、当時の複雑な心境がよみがえってまいりました。3人とも胃ろうは造設しませんでした。

現在、父(87歳)は特養ホームで半年前から鼻からのチューブで栄養補給です。耳はなんとか聞こえる気配ですが、問いかけには無反応。声も発せません。

数年前より軽度の脳梗塞、認知症、パーキンソン病でしたが、昨夏、施設にて脳出血を引き起こし入院。一命はとりとめたものの、以来、口からは食べられなくなりました。鼻からの栄養補給が試され、うまくいくようになり、3ヶ月入院後施設に戻ることが出来ました。父の心の内はわかりませんが、生きていてくれることは心の支えです。

看取りは自宅で。

 

 

静岡県 S様 72歳 (女性)

発症以来10年になる夫を自宅で介護しています。「大変な時期」は今や通り過ぎ、夫は穏やかな状態を保っていますが、新たに身体機能が衰えて自立歩行も思うようにいきません。

居室が2階にあるので、デイサービスの送迎をヘルパー2人対応でしていました。

今年に入り、湯たんぽによる低温やけど、誤嚥性肺炎と続き、発熱の回数が増えました。訪問診療、訪問看護で点滴、痰の吸引、褥瘡の処置等を受けています。

私にとっても、本人にとっても間もなく訪れる未知の領域は「終末期」です。幸い医師とは何回となく「その時」のあり方を含め、看取りも自宅でという方針を確認しあうことが出来ています。

土井正樹先生の「終末期を考える」の連載は私にとって思っていた事と重なり、自分の考えを確認することができました。異なった意味での「大変な時期」に出来る限り静かに向き合っていきたいと思います。